さて10月になり、ようやく秋を感じられるようになりました。9月も過去最も暑い一月となりました。今後もこのような気候が続けば、秋の紅葉は見られなくなるとも言われます。何としても子どもたちには、四季を伝えていきたいものです。
前回日本には様々な子育論はあるが、その多くは欧米からの輸入なので、それ故日本では合わない事もあるという話をしました。そこで何故そうなのかを、日本と欧米の文化から考えてみたいと思います。
近年日本でも、ベビーシッターという言葉を聞くようになりました。日本語に訳すなら「子守り」でしょうが、ベビーシッターと子守りでは、その意味する所は大きく違います。子守りには、親がどうしても子どもを見られない場合の親代わり、というように少し後ろめたさも感じられます。が、欧米のベビーシッターには、親がパーティーに行く時(夜に多い)の学生バイトでもあり、後ろめたさなどみじんもありません。又、日本では両親の間に子をはさみ川の字で寝たりしますが、欧米では基本子どもは一人で寝ます。何やら欧米の方が、子どもをしっかりしつけているように思え、日本も見習うべきだと考える方もいるかもしれません。ところが一見大きな違いがあるように見えるのですが、実はその本質は全く変わらないのです。言うなら両者の行動の原理が異なっているのです。さらに言えば、その原理(原理は行動規範を意味します)は何に由来するかが違うのです。
欧米世界は、キリスト教という一神教によって成立し、その絶対的存在である神を支えとする社会であり文化です。つまり神の教えこそが行動規範なのです。ところが日本には、欧米のような唯一無二の神はいません。八百万(やおよろず)の神と言われるように、山、川、海、空など自然だけにとどまらず、田畑、道、家、トイレ挙句は、皿、筆、傘、本…等々ありとあらゆる場や事象、事物に存在するのです。そこで人同士が直接支え合う、人間関係を行動規範とする社会と文化を作り上げました。だから親は親を支えとする子どもを、一人で置いては出かけないし、一人では寝かせません。どちらの社会が良いか悪いかではなく、それぞれがそのような社会だという事です。
神を支えとする欧米では、親はベビーシッターを頼んでパーティーに出かけるし、子どもは一人で寝かせます。不安を感じるなら神に頼れという事です。一方の日本では人に頼るのです。現在欧米世界において、犯罪や反社会的行動等が増大している理由に、社会の基盤となる神への信仰が、薄れているからとも言われます。絶対神のいない日本の治安が安全に保たれているのは、人間関係社会がまだそれなりに機能しているからなのでしょう。とは言え、日本の安全な社会を継続させるのは、今後の我々の大きな課題でもあります。
時々子どもを甘やかせてはいけない、と言われる事があります。しかしそれも欧米の考え方です(甘やかせ過ぎは問題ですが)。要は甘えの対象が違うだけなのです。欧米人は神に甘え、日本人は人に甘えるのです。甘えが大切なのは、信頼関係を生むからです。ただしこの信頼関係の在り方も、欧米と日本では異なります。基本的に欧米の信頼関係は、同じ神を信じているからお互いを信頼できるのです。日本では、人同士が直接的に繋がり信頼を育みます。いずれにせよ様々な子育て論を理解しようとするなら、そもそも欧米と日本では社会の仕組みが違う、ということも知るべきではないでしょうか。